この色鮮やかな春らしい表紙の熊大通信(72号、2019年春号)の発行を最後に、平成27(2015)年度から平成30(2018)年度まで4年務めた熊大通信編集長を退任します。この4年間はわたしの熊大教員キャリアのなかでかけがえのないものになりました。
思えば、平成26年度の年度末(27年3月)の某日、その後、副学長・理事になるある先生から「学長特別補佐になって」と言われたとき、まずはじめに浮かんだ疑問が、そんなポストあったのか?というものでした。で、ついては「熊大通信の編集長に」とも。「熊大通信」???そんなの・・・(以下、自粛)。
こんな感じではじまった編集長なので、担当職員や実際に取材し記事を書いてくれる方々に「おんぶにだっこ」の編集長だったわけですが、こんなわたしでも、一応、熊通作成にあたりこだわっていた(それほどでもありませんが)がありました。
その1は、五高・熊大という「伝統」です。わたし、こう見えて「保守派」なので、こういうの好きなのです。先人が積み上げてくれたものを引き継いで後代に繋げていく。こういう気概をもった熊大生、熊大教職員であ...ってほしいと思っています。
というわけで、「五高✕七高」とかの対決も好きなのです。どんなことでも好敵手があるということは、有り難く幸せなことだと思います。
その2は、自分で読みたいものをつくる、という点です。熊通の分量は、だいたい1時間で読めるものです。飛行機なり新幹線なりで移動しているときとか勉強・研究の合閒に読み切れるくらいの。そのときに、この1冊を読んで「なんか、ほう、面白かった」と(自分が)思う内容にしたいと考えていました。ということで、テーマは自分の興味関心に偏っているかもしれません。
その3は、地震をうまくとりあげることです(難しいのですが)。編集長になり2年目になったとき、平成28年熊本地震にあいました。このときに編集長をしていたこと、一生、忘れないと思います。地震直後の号にはわたしのたっての希望でチアの全面写真を使わせてもらいました。熊通で Cheer Up を伝えたかったからです。このときの中心メンバーは、今年、卒業です。また、九州大はじめ多くの大学にご支援いただいたこと、いまでも思い出します。(わたしがチアの所属する熊大応援団の部長に就任したのは、まだ後になってのことです。このときはとくに知っている学生もいないのにBLAZESのアカウントにDM出してお願いしました)。
そして、やっぱり、熊大がいい大学であってほしい、という思いで編集長を務めてきました。「いい大学」ってどうはかるのか難しいでしょうが、わたしは「子どもを入れたい大学」がいい大学と思い「親子で熊大生」特集もしました。
という感じで、なんだかんだいいって、青天の霹靂で就任し素人ながらなんとかやってきた4年間でしたが、振り返ってみれば、われながら立派だったのでは、と思います。冒頭にも書きましたが、わたしの熊大人生で4年も編集長ができたこと、そして、自画自賛ですが一応のものも残せたこと、もう満足しようと思います。
これをもちまして、熊大通信編集長を退任します。4年のご愛顧、ありがとうございました。